縁日と いけばな 草月流
「いつでも、どこでも、だれにでも」
いけばな草月流の講師を迎え、
縁日法要後、不動堂にて、
草月流のデモンストレーションを行います。
楽しみながら、草月の美しさに触れてみませんか?
日時 5月28日(月)
午前10時の法要後、11時から12時
どなたでも、お誘い合わせの上、お参りください。
馬木不動尊は日本三大不動明王の一つとして知られている。「雲陽誌」には、日本史に残る僧侶であった行基の彫刻と記してある。一説によると「出雲国風土記」に記載されている朝山郷の新造院ということである。
「いつでも、どこでも、だれにでも」
いけばな草月流の講師を迎え、
縁日法要後、不動堂にて、
草月流のデモンストレーションを行います。
楽しみながら、草月の美しさに触れてみませんか?
日時 5月28日(月)
午前10時の法要後、11時から12時
どなたでも、お誘い合わせの上、お参りください。
住職 土井一顕
「うれしさは
春のひかりを
手に掬(すく)ひ」
(野見山朱鳥)
大自然の樹木は冬の間厳しい環境に耐え、エネルギーを蓄え春の訪れとともに活動を開始し、新芽を出し美しい花を咲かせてくれました。そのやわらかな春のひかりを全身に浴びることのできる季節が到来した幸せを感じるこの頃です。花は精一杯与えられた「使命」を果たして輝き、私たちの心身を楽しませてくれています。「使命」という字は、命を使うとあります。人にとっての「使命」とは、与えられた生命(いのち)を最期(さいご)まで生き抜いていくことだと思います。人の人生は、時には予期もしない悲しみや苦しみなど、一見マイナスに見える体験をしながら生きています。しかし、このマイナスの体験が、年月の流れとともにその人を強くし、プラスに転換(てんかん)して作用する結果となることも多くあります。長い目で見れば、いろんな体験は生きる力となり糧(かて)となっていきます。
平成二十三年の日本青少年研究所の高校生を対象とした調査で、衝撃的な結果されました。それは、「自分は価値のある人間だと思うか」の問いに対し、思うと答えた割合が米国八九・一%、中国八七.七%、日本はなんとたった三六・一%であったとのことです。「自分だって生きている使命がある」という自己肯定感がなくては、他人のことを大切に思う心も失われてくるのではないでしょうか。金子みすずさんの「・・・すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがってみんないい。」という、それぞれが存在していることの尊さを再認識しなければならないと思います。
お釈迦様は、人間性の尊厳(そんげん)を「天上天下 唯我独尊」と宣言されました。全世界の中で自分という存在の尊厳さにめざめてこそ、他人の尊厳を認めていくことにつながっていくのではないしょうか。森羅万象すべてに仏性(ぶっしょう・仏の性格)があり、自然も人も一体とみなして差別しない仏教の教え、人の苦しみを自分の苦しみとし、人の悲しみを自己の悲しみとして共に泣いた仏陀(ぶっだ)にもっと耳を傾けようではありませんか。
「自分の人生は、なんとつまらない人生」と考えてしまうと、生きていく意味を否定してしまいます。人間には必ず与えられた「使命」があるはずですから「使命感」を持って前向きに生きていきたいものです。
副住職 土井裕翔
あの地震、あの津波、そして、福島原発事故による放射能漏れが起きてから、一年と一カ月が経過しました。当時、テレビでは、これらの出来事を連日絶え間なく報道していました。
そこからは、人々が普通に暮らしていた町に襲いかかってくる津波の映像。その津波が去ったあとのあまりにも変わり果ててしまった町の風景。さらには、何もかも失ってしまった人々の悲痛なる叫び声などが伝えられてきました。一瞬にして今まで暮らしていた町や家や思い出の品々、さらには、家族・知人などのかけがえのない大切な命を失ってしまった人々の悲しみの深さは、想像の域を超えます。
この多くの悲しみの中でも、最もつらく切ないことは、やはり、大切な命との別れであったろうと思われます。老衰や病気によって、徐々に死に近づいていくという死に方ですら、残された者にとっては、とても深い悲しみとなります。それ以上に残された者に深い悲しみを刻むのが、東日本大震災のような自然災害などによる不慮の別れであろうと思われます。
さっきまでいつもと変わりなく元気に暮らしていた人が、突然旅立ってしまうからです。徐々に死に近づいていく場合でも、残された者にとっては、「あの時こうしてあげればもっと良かったのではないか?」「こういう願いを叶えてあげればもっと良かったのではないか?」という後悔の念が多少なりとも残ることでしょう。しかし、突然の別れの場合、何の心の準備も最期の別れも出来ていないために、「最後に交わした言葉は?」「こうなることが分かっていたら、もっとこうしてあげていれば良かったのではないか?」「なんで助けることが出来なかったのか?」と、自責と後悔の念に頭の中が占領されることでしょう。
『納棺夫日記』という本の著者で知られる青木新門さんは、自然災害で大切な命を突然失った方々に次のようなメッセージを送られました。
「もっとちゃんとお葬式してあげたかった」と思われただけで、もう十分なのです。石を置き、野菊を一木立て、手を合わせるだけで十分なのです。どうか悔やまないでいただきたい。死者たちは「育てていただいてありがとう」と言い、先立つことを「ごめんね」と言って、残された方々に<いのち>を託されたのですから、死者たちのためにも、いのちを生き切ることです
このメッセージは、自然災害を原因とするものだけではなく、身近な人を亡くされた方にとっても、大きな救いの言葉となるものです。「ナニナニしてあげたかった」という思いは、必ずや、死者に届くのです。そして、残された者は、この与えられた命を前向きに生き切ることが、死者への供養となるのです。
ところで、今回の自然災害に接するにあたり、自然の猛威の恐ろしさに改めて気づかされました。災害列島と言われるこの日本は、諸外国と比べて、地震・豪雨・洪水・豪雪などの自然の猛威に襲われる可能性が高いと言われています。今回、想定外の災害ということがしきりに言われておりました。これほどまでに技術が発達し、専門家の人々が叡智を振り絞って、災害を食い止めようとしても無理でした。自然の恐ろしい脅威には勝てませんでした。そもそも、自然を相手にする場合、想定外なんていうことはないのかも知れませんが。
日本人は、古くから自然を畏れていました。また、土地の神様・山の神様・海の神様・川の神様・風の神様など、自然に神様を見ていて、自然を尊んでいました。すなわち、すべての自然現象を想定外ではなく、むしろ想定内と考えていたのです。
自然災害は起こらない方がいいに決まっています。しかし、いつ起こるとも知れない自然災害に畏れを持ちつつ、何事も起きず無事に一日を終えることが出来たならば、それを当り前のことと思わず、「ありがたい」と、神仏に感謝しながら日々を過ごしていくことの有り難さ。そのような心で日々過ぎしていくことの大切さに改めて気づかさせて頂きました。