
忍耐玉成
住職 土井一顕
寒く厳しい冬、ただひたすらにじっと耐えて、やがて来る春を待つ草木や昆虫たち。みんな生きるために懸命だ。生きていくために、環境の変化にも長い時間をかけて順応してきたものたちもいる。
例えばトンボは、太古の時代体長が40〜50センチもあり、鳥のような大きさであった。しかし、この大きな体を維持する食糧を確保することが困難となり、生き残るために次第に寸法を縮めてついに現在の体形となった。又、サケ科の岩魚(いわな)は大昔サケと同じで海へ出て、産卵のために川をのぼっていた。岩魚は水温15度以上では生きていけないので、氷河期以後水温上昇とともに海へ出られなくなり、やがて水温の低い川の上流部にのみ定住するようになった。このように生きていくために、自らの体形・住環境を変えてきた生物たちの生命力の強さには敬意を表す。
桜の木も冬には葉を落しエネルギーを蓄え、春になると一気に見事な花を咲かせる。
タンポポも深く地面に根をおろし、踏みつけられても負けずにじっと春を待っている。 それに比べ人間はどうでしょう。
いじめ・借金苦・病苦・孤独等に耐えることができず、何よりも大切な尊い生命を落とす人達が増加している。その数は交通事故死者をはるかに超えている。とても悲しいことである。
仏の教えではこの世が娑婆(しゃば)――忍士――である以上、どんなに苦しくても悲しくても与えられた生を全うしなくてはならないということが原則である。娑婆とは、耐え忍ばなくてはならない社会という意味である。しかし人生決して苦しみや悲しみばかりではなく、耐えることによって楽もありやがて春も訪れてくる。
「妙とは蘇生の義なり」と教示されているが、心身が疲れてしまった時には「妙法」の力によって生命に活力を与え、精神を蘇らしていくことが大切である。「妙法の力」とは、仏が私たちにお示しになった不可思議な生命力をいう。
「妙法」の祈りによって現実をしっかり受けとめ、自己の生命力を引き出しマイナスをプラスに変えていこうとする生き方をしたいものである。人生とはまさに悲喜こもごもであり、この喜怒哀楽の中で自己を追求し心の平安を求めていこうとする生き方をしたいものである。「冬は必ず春となる」じっと耐えて春を待つ草や木や虫たちに、私たち人間が学んでいかなくてはならない。
「耐忍(たいにん)」は「仏」という磨かれた玉となるために、人間に与えられた大きな試練といえよう。
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2007.10.04
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「インドを訪ねて」
副住職 土井 裕翔
以前から「いつの日かインドに行ってみたい」と思っておりましたが、昨年11月18日から12日間、ついに、お釈迦様が生まれた地・仏教の聖地であるインドを訪れる事が出来ました。
インドの国土は日本の約10倍といわれとても広大な国であり、他民族、他宗教などにより、行く場所によって様々な面を持っているようです。都会は多くの建物が立ち並び、車が渋滞しているので、日本の都会とそれほど変わりませんが、田舎は、電気のない家が多くあり、人々の着ている服も粗末で、はだしの小さな子供が赤ちゃんを抱っこしながら働いている姿を何度も見ました。
物売り・乞食がしつこくついて来るという事は以前から何となく聞いていましたが、実際に行ってみて私の想像を超えていました。バスでの移動が大半でしたが、バスから降りるたびに、まるでワイドショーで注目されている有名人をリポーターが取り囲むように、多くの物売りや乞食に囲まれ、そして、ずっとついて来ました。驚いた事に、彼らの多くが日本語を上手に話す事が出来ました。
今回の訪問の目的は、お釈迦様がご誕生された地・お悟りになられた地・「法華経」など経典を説かれた地(霊鷲山・りょうじゅせん)・お亡くなりになられた地などの仏蹟を訪れ、それぞれの地で「法華経」を読み、お題目を唱えさせて頂く事でした。インド人の70パーセント以上は、ヒンズー教徒であるようですが、ヒンズー教徒にとっても、お釈迦様は偉大な神様としてあがめられているようで、何処の仏蹟を訪れても、インド人やアジア各国の仏教を信奉する数多くの人々が集まり、それぞれの人々がそれぞれの信仰の仕方で祈りを捧げていました。仏蹟は現在インドの中でも、比較的貧しい地域である北部に点在していて、道路が整備されていないために、バスで10時間近い移動というのも何回かありましたが、それでも、仏蹟は、以前に比べるとかなり整備されているようです。あるホテルでたまたま紳士風な日本人と出会いましたが、この方は、35年前にインドに留学されていて、当時は、お釈迦様が「法華経」などの経典を説かれた地、霊鷲山(小高い山)の場所がなかなか分からず、探すのにかなり苦労し、見つけても山頂までの道がなく、人々が信仰の為に道なき道を登った為に、数多くの爪あとが残っており、それが大きなくぼみとなっていたと語って下さいました。ちなみに、今は、山の頂上まで道が整備してあり、観光地みたいになっています。
今回、2500年前にお釈迦様の歩まれた道を訪れ、お釈迦様の偉大さというのを肌で感じ、その教えが今日まで脈々と続いているという事に、とても深く感動しました。最後にお釈迦様が、つねに私たちに対して救いの手を伸ばして下さっている、という経文を引用して、新年の挨拶にかえさせて頂きます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
「毎(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念(ねん)を作(な)す、何(なに)を以(もっ)てか衆生(しゅじょう)をして、無上道(むじょうどう)に入(い)り、速(すみや)かに仏身(ぶっしん)を成就することを得(え)せしめんと」
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2007.01.01
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厄年(やくどし)
厄年とは、人の一生のうち災難にあうおそれが多いので慎まなくてはならないとする年。男性は25、42、61才、女性は19、33、61才をいう。共に数え年で42、33才を大厄といい、その前後の年を前厄、後厄といい、3年間は慎む風習がある。
<平成19年の厄年>
男性
61才・・・昭和22年生
42才・・・昭和41年生
25才・・・昭和58年生
女性
61才・・・昭和22年生
33才・・・昭和50年生
19才・・・平成元年生(昭和64年生)
※厄払い祈祷、その他の祈願正月3ケ日も受けつけいたしています。
仏教のことば
四無量心(しむりょうしん)
仏さまが私たち衆生を救済しようとするような、4つの量りしれない大きく広い心のこと。
慈心(じしん)
もろもろの善を生み出す根源の心。
他人をいつくしみ思いやる心。
与楽(よらく)ともいい、相手に楽を与えること。
悲心(ひしん)
仏さまが衆生の悲しみや痛みに対して、救済しようとする母が子を思うような心。
抜苦(ばっく)ともいい、相手の嘆き悲しみを思いその苦しみを抜く行為。
喜心(きしん)
他人の喜びを、自分自身の喜びと受け取ることのできる心。
ねたまない心。
捨心(しゃしん)
一切の差別を捨てる心。
執着を離れる心。
懺悔(ざんげ)
古代インドの仏教教団では、自ら犯した罪を告白して、集まった人々の許しを乞う懺悔の儀式があった。その伝統にのっとり、仏前にぬかずいて自らの罪を悔い心から反省することをいう。
懺悔することによって、滅罪(罪を消していくこと)につながっていく。
菩提(ぼだい) さとりの境地のこと。さとりを求める心を菩堤心という。
さとりの境地のこと。さとりを求める心を菩堤心という。
菩堤心をおこして、仏をめざしている者を菩薩という。死者に死後さとりの境地に到達してもらいたいと、菩堤を弔う(とむらう)ところを菩堤寺という。
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2007.01.01
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馬木不動尊奉賛会会員募集
馬木不動尊の護持と興隆のために広く会員を募集しています。
ご入会下さいますようご案内申し上げます。
●年会費 3,000円
馬木不動尊奉賛会
TEL 0853(48)0600
FAX 0853(48)0148
ホームページ http://www.izumo-net.ne.jp/~komyoji/members.html
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2007.01.01
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